パラパラ漫画

竹田康一郎



 同じクラスの女子が死んだ。校舎の屋上から飛び降りて。挨拶程度にしか口を利いたことのない子だった。もっとも、クラスの女子のほとんどとも口を利いたことがない。僕がクラスの中で一番冴えない男子だったからだ。

 彼女の死から一か月。彼女の死を冗談のタネにする者も現れだした。こうやって“彼女の死”は忘れられていく。否、忘れようとしていた。なにしろ、僕らは、高校受験を控えた中学三年生だったから。

 でも、一人だけ、彼女のことを忘れまいとしている子がいた。彼女のただ一人の親友、七條さんだ。七條さんの席は、僕の斜め前。授業中も彼女の顔がよく見えた。以前から口数の少ないひとだったけど、あの自殺の後は、尚のこと黙り込んでいるようになった。クラスで一、二の優等生だったのに、今では、先生の声など聞いていない。ただ俯いて教科書の隅に何かを書き続けている。何かに取り憑かれたように。

 七條さんは何かの絵を描いていた。一ページ一ページ、丹念に描き込んでいた。パラパラ漫画というやつだ。そういえば七條さんは漫画を描くのが得意で、自殺した友達にもよく見せていたっけ。

 僕は気になって仕方なかったから、教室に誰もいなくなった機会に例の教科書を盗み見た。教科書の隅に七條さんがいた。哀しげな眼差しで佇んでいた。僕は、教科書のページを指で弾いてめくってみた。七條さんが走り出した。走っていく先には教室の窓があった。七條さんがその窓に飛び込もうとしているところで漫画は終わっていた。未完成の漫画。この先、どうなるのだろう? 何を意味しているのだろう? 僕は、思わず教室の窓を見た。三階の窓。下は硬いコンクリート。そこから飛び出したら……。

 ますます七條さんから目を離せなくなった。昼休み、彼女は、ひとり図書室に行く。僕は探偵のように彼女のあとをつけた。彼女が読み耽っていた本の作者は、太宰治、芥川龍之介、金子みすず……。みんな、自殺した作家じゃないか。

 七條さんは死のうとしているんだ。あのパラパラ漫画は遺書じゃないのか。

 教師に報告することも考えた。でも、それでどうなる?「七條、自殺したいのか?」「いいえ」それでおしまい。そもそも、僕は、学校や教師を信頼していなかった。でも、ぼやぼやしていたら、七條さんは、あのパラパラ漫画を完成させてしまう。そうしたら……。混乱した僕は、実に子供っぽい行為にでた。あの教科書を盗んでしまったのだ。パラパラ漫画を完成させまいとして。

 教科書がないことに気づいた七條さんの狼狽ぶりはかわいそうなくらいだった。それを見ながら、彼女の自殺を食い止めたことにささやかな満足感を味わっていた。でも、これが根本的な解決にならないことは分かっていた。七條さんが死ぬ気なら、別な教科書に漫画を描きだすだろう。否、教科書でなくたっていいんだ。自宅にある本にだって描ける。自分の部屋で誰にも邪魔されず。そうなったら手の打ちようがない。僕は、盗んだ教科書を返すことにした。ただ、ちょっとしたメッセージを添えて。

 なくなった教科書を抽斗(ひきだし)の中に見つけた瞬間、七條さんは、授業中にもかかわらず、見開いた目で教室内を見回した。その瞳と正面衝突しそうになって慌てて顔を伏せた。ようやく彼女の方に目を向けることができた時、いつもの七條さんがそこにいた。漫画を仕上げることに熱中していた。僕のメッセージに気づいた気配は見られなかった。

 まもなく漫画は完成したようだった。背筋を伸ばし、閉じた教科書の隅を親指でめくり出す。七條さんのシナリオでは、走り出した彼女が窓から飛び降りる結末になっていたはず。

 教科書のページは、もう動かない。漫画は終わった。七條さんは呆然としていた。やがて、突然、夢から覚めたように再び教室内を見回した。僕は危うく目を伏せた。七條さんが教科書のスクリーンに見たものは、窓から飛び降りる彼女ではなかった。窓から大空に飛んでいく彼女だった。僕が、彼女の背中に小さな翼を描き加えたから。


 あれから三か月が過ぎ、僕らは卒業を待つだけになった。七條さんが死ぬことはなかった。

 勉強どころじゃなかった僕は、志望校に落ちて、滑り止めに何とか引っかかった。一方、その原因である七條さんは、難なく第一志望に合格していた。彼女は本当に死ぬ気だったのか? 僕の空回りだったのか? なら、僕の時間を返せ!

 七條さんの表情は心持ち明るくなった。その横顔を斜め後ろから眺めるだけで、三学期最後の授業は終わった。後ろ髪を引かれる思いで戻ってきた下駄箱の前。靴の上に見慣れぬノートが置かれていた。開いてみると、冴えない中学生の姿。僕だ。誰が描いたのかは、すぐ判った。

 夢中でページをめくると、冴えない中学生が動きだし、走り出し、背中の翼で空へと舞い上がった。もう冴えない中学生ではなかった。そして、最後のページにこう記されていた。


 私の天使さんへ ありがとう。




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