風船

山口祥子




 また邪魔が入った。

 大事な時に限っていつもこれだ、と哲司はうるさく鳴る電話を横目で見ながら、むしろ苦笑してしまう。

 一世一代の大仕事(そう言っていいと思う)を前に、気が削がれるのは好ましくない。

 やれやれと思いながら哲司は一旦作業を中断し、チェストの上の電話をとった。


「あ、祐市? あなたが最初に電話にでるなんて珍しいわね。お婆ちゃん、びっくりしちゃった」

 完全なる間違い電話だ。全く迷惑な話だが、これも自分らしいといえば自分らしい間の悪さだな、と哲司はこの際鷹揚な心持ちになった。

「あのう、どちらにおかけですか?」

「とぼけて切ろうったって、私にそんな手は通用しないわよ。意固地なフリしたってダメ。あなたはもともとそんな子じゃないんだから」

「いや、とぼけてるんじゃなくて」

「祐市、お婆ちゃんね、老人ホームでコーラスの会に入ったの」

 それからお婆ちゃんは、孫のユウイチを相手にどうでもいいコーラスの話をしまくった。とにかく人一倍歌いたがる人がいるとか、どうしても音程がズレてしまう人がいるとか、ホントにどうでもいいが、聞いていると存外おもしろい。上品な口調だがかなりの話好きらしく、口を挟む隙間はほとんどなかった。そしてやっと話が終わるかと思われた時、

「祐市、少しは元気出た?」

 なんのことだろうか。哲司は、お婆ちゃんの口調がそれまでと微かに変わって気遣わしげな響きが含まれていることに気を引かれた。もしかしてこれからが電話の本題なのだろうか。

「この前、まるでこの世の終わりだみたいなことを言っていたから、お婆ちゃん心配でね。怪我のせいで大会は残念だったわね。でも、命までとられるワケじゃないんだから、必要以上に思いつめないことよ」

 哲司は少し苛立ちを感じた。他人の込み入った事情をふいに耳に入れられたせいか、それとも単に無垢な励ましの言葉にだろうか。意趣返しはほぼ反射的と言ってよかった。

「命まで取られないっていうけど、失ったものによっては生きてても死んでるみたいに絶望してしまうことがあるよ、お婆ちゃん」

 すると電話の向こうに僅かな躊躇いの気配が漂った。

「子供の頃からスキー人生だものね。順風満帆じゃなかったけど」

 ユウイチはスキー競技の選手なのか。怪我で大会を辞退したのだろうか。哲司はスキー競技の花形選手を数人思い浮かべたが、ユウイチがその中にいるかどうか分らなかった。

「そうかな」哲司はとぼけた。ユウイチの話をもう少し聞きたい

「もう少し、もう少しのところで、必ず何かトラブルが起こったものね」

 哲司は知らず自分の過去と照らし合わせた。

 ポイントカードのスタンプ、最後の一個というところでその店が閉店したり、勤続十年の特別連続休暇を取る寸前に会社が合併してリストラされてしまったり、七年続いた交際相手にプロポーズしようとした矢先にフラれてしまったり……。

 ユウイチが他人とは思えない。

 窓の外を赤い風船が飛ぶのが見えた。ぼうっとしているとお婆ちゃんがまた話し始めた。

「でも今日までスキー人生だったからって、スキーだけが人生でもないわ。人は生きている限り色んな可能性が残されているの。年寄りの私にだって人の役に立つことがあるのよ」

「どんな?」

 風向きが変わって赤い風船が哲司の部屋のベランダに引っかかった。

「ソプラノ。出来る人が少ないの」

 哲司が思わず笑うと電話の向こうでも笑い声が聞こえた。

 と、同時にお婆ちゃんの背後に人の声が聞こえた。どこに電話してるの、などと女性の声が聞こえる。しばらくしてその女性が電話口に出た。

「もしもし」「はい」

「ごめんなさい。うちの患者さんがご迷惑をおかけしました」「い、いえ。患者さんって?」「認知症なんです。電話帳ででたらめに電話をかけた相手を孫と思い込んで話してしまうんです」


 受話器を置き、哲司はこの偶然についてしばし考えた。すると玄関の呼び鈴が鳴った。

 これまた仕方なくドアを開けると、六歳くらいの女の子が立っていた。

 下の階の子だ。見かけたことがある。

「どうしたの?」「あのう、風船とってもらえますか?」


 哲司は鴨居に回したロープをはずし、台を片づけてベランダに向かった。風船をとってあげなければならない。

 一世一代の大仕事は中止だ。取りあえず今日のところは。





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